おもてなしの経済学

読んだ。もともと中島聡氏の blog は feed reader に登録してたんだけどいろんなところで「おもてなし」とか「スーツとギーク」とかのキーワードが出てくるので買ってしまった感じ。原義を知るなら提唱者の言うことをきくのがいいっていうしね。いや「おもてなし」に関しては厳密には中島氏が言い出したことじゃないんだけど。ってこれもこの本読まないとわからんか。

この本も「 2 ちゃんねるはなぜ潰れないのか ? 」 ( http://d.hatena.ne.jp/janus_wel/20080419#1208649657 ) と似たような感じで昨今のインターネット界隈の話しを中島氏のフィルタを通してみるという形なんだけど氏が今の時代の流れを作ったうちの一人なので過去との関連も含めて語られているのが面白い。まぁ過去に関することはほとんどキーワードとして提示されるだけなので自分で調べないと実感がわかないとは思うけど。

俺が感じた中島氏の印象は適切なアウトプットを出すことでしか人の心は動かない人だと思っている人。そしてその大元は感覚や気持ちに由来するものであると認識している人。何が適切かは感覚や気持ちに聞けばわかるだろ ? って感じ。ここらへんは性善説にちょっと近いと思うけど俺は好きだ。

本に関しての不満点は注釈の位置が離れすぎてることかなぁ。これ意味ないよ。

以下中身に関してぐだぐだ妄想。

  • とりあえず言葉に関する知識はためになった。カタカナ外来語がいかに変なイメージで塗り固められているかを再認識した。具体的にはリテラシーの話し。やはり見慣れない言葉は多少面倒でも原義にあたらないとダメだという教訓。
    • というか理想論を言えば日本発祥の若者言葉や擬音などの一部の例を除いてカタカナを使いたくはないんだけどなー。定着してしまってわざわざ輸入元の言葉で記述するのも違和感のある言葉とかアルファベットやウムラウト簡体字中国語なんかによる心理的抵抗などもあるにはあるので理想をつっぱしるわけにいかない状況も存在するのがめんどくさい。
    • で、こういうのがアリかナシかというと対象によるとしか言えないが表現の一つとして許容されつつあるのは確かだよな。 UTF-8 なんかの Unicode 環境はほぼ整っているし ( 技術的要素 ) 、表現が気に入らないなら読まない・そこでなくても代替物はあるもしくはそのうち書かれるというご時勢だし ( 社会的要素 ) な。俺の姿勢は理解できる範囲で原語で書いていこうという形なんだけどやっぱりベースが日本語なので知らないこともあるわけで。これを徹底しようとすると言語学者でも難しいんじゃねぇかと思うのでテケトーな感じでやっていく方向。
  • YouTube の話題は time-shift と扱いやすい UI でのおもてなしがメインなんだけど現在 google が赤字垂れ流しであるとか著作権でボコボコ殴られてるとかはあんまり触れられてなかった。
    • いやまぁ単純に著作権て言うといろいろめんどくさいのでモノを作る人への配慮や敬意なんかを考慮するべきという根っこの部分を言ってるんだけど。そのほうが国際的にも通じるとは思うし。
    • 確かに変につっこむと収拾がつかない話題ではあるんだけど YouTube が提供するおもてなしが日常的な著作権侵害を結果的に助長しているとかメディアのひとつであるなら広告モデルの確立までは最低限必要とかでも広告うぜーと思う客が多いから最初は広告はずして集客したから人気が出たとかそこまでつっこんでいかないと成功事例にはなりえないよなと思うわけで。
  • 「床屋の満足」についてはいろいろ絡むので一概には言えないと思うんだけど仕様策定をユーザがやるとかいう事例も今はかなりあるのでそれほど心配する必要はないと思う。いやまぁ作り手にしたら常識として教育しなきゃならんことだけども。
    • それと関連するのは Wii のコントローラだと思うんだけど結構前から実用化は可能だったけどいまいちパッとしなかった加速度センサや赤外線認識なんかを使って楽しいガジェットに仕立て上げたのはやっぱりひとえに楽しいものを作りたいって気持ちがあるからだろうなぁと思う。他には補足的なんだけど重要なこととしてはユーザの立場にたつってつまりユーザにならないとダメなんだよな。その点で独立しているゲームメーカーって自分が面白いと思えるゲームを作ることが一つの目標点なわけだからわかりやすい。
    • あ、もうひとつあった。 NGN やら地上デジタル放送への転換だ。ここらへんてほんとにユーザが喜んでるかっていうと確かに速くなるとか画質がきれいとかで喜んでる人もいるんだろうけどそれって本質的じゃない気がするんだよな。かかる金・時間・労力などのコストとそれらのコストパフォーマンスを考えるとやっぱり「床屋の満足」にしか見えない。
  • double-major は知識としては日本でもそれなりに浸透してきてるとは思うけどやっぱり負担がでかいんだよな。分野によってはわらじひとつでも食えるようになるまでにかなりかかるわけだし。
    • ただまぁ二足のわらじでコケないようになるとそのうちハイブリッドジョブにつける。それもステータスは習得ジョブのうち最も高いものが適用されている意図的に弱体化されてないジョブに。それくらい dobule-major は強い。サイキョー。いやまぁ double でなくてもいいんだけど。
    • ていうか日本で double-major の実践者があまり増えないのは社会の仕組みが悪さをしているからだという記述もあるけど日本は個人の属性の中でも社会的な地位が異常なまでに重視される社会なのでまずそっちをとりにいっちゃいやすいという点がある。その結果人間として実のないひとが増えているとかは言わないよ俺は。
  • 対談に関しては Windows の常駐ソフトの思想を中島氏が思いついたとか N88-BASIC(86) のリリースに関するゴタゴタのはなしが面白かった。過去のはなしであることには違いないんだけどその過去を通って俺達は今ここにいるわけで。 Windows の常駐ソフトなんかは今でも見えやすい所に管理機能がないし N88-BASIC(86) からプログラミングを始めた人も多いはずだ。かくいうおれはさわっただけでプログラミングはしたことなかったが。
  • geek と suit に関してはわかりやすい分類だとは思うけどあくまで分類方法でしかないので知っているとはなしがしやすくなるというだけでしかない。 geek と suit の中間、というのは確かにこれから必須になると思うけど言い方がおかしい気がするな。別に数直線上でこのへんとか指し示せるものではないのでというか両方が一定レベルに達してはじめて意味をもつ上にその際のバランスはあんまり関係ないと思う ( どちらも 100 以上は必要だが 100 : 1000 でもかまわない、みたいな ) ので中間て表現はよくないかなと。
  • blog が教育の場であるというのは誰が教師になるかとか強制的でなかったりとかで一概にそうだとは言えないと思うけども blog を通じての意見・思考の交換というのは面白い意見かも。通常に比べて緩慢ではあるけれどもトラックバックなんかで会話はできるわけだしそれぞれに考える時間は十分あるわけだから純粋な意見のやりとりができる環境はそろっている。まぁそれぞれが自分の意見・思考を持っていてそれを表現できる術をもっているというのが前提条件だけれども。